金銅十一面観音立像 天平年紀
¥ 980,000 税込
商品コード: nb077
天平年紀のある金銅十一面観音立像です。
この観音さまはやわらかな衣を身にまとい、細い手が伸びやかに配されています。
体軀は肩幅が狭く、少し腹部を前に出しています。
腕は細く長く、右手は屈臂して腹前で水瓶を執ります。
左手は素直に垂下して、親指と人差し指で輪をつくった来迎印になっています。
足指は裳裾から少し見える程度です。
お顔は優しく、頬にふくらみもあり童顔に近い顔貌です。
眉間に大きな白毫がございます。
お顔の頭上に頂く宝冠には,十面の頭上面があり、本面と合わせて十一面を数えます。
頭上面の下部左右には、簪(かんざし)様の装飾品が下がります。
このように多数の顔や腕を具えた観音像は変化観音(へんげかんのん)と称されます。
変化観音はこの十一面観音以外に九面観音、千手観音、不空羂索観音などがございます。
法華経には観音菩薩が衆生救済のため、様々に身を変じてこの世に出現することが説かれますが、十一面観音の頭上面にも同様の性格を想定できます。
経典には国中に疫病が蔓延した時にこの佛面に向かって陀羅尼を唱えることで流行が終息すると説かれています。
このような頂上佛面の、疫病を鎮める効能は、日本で十一面観音や九面観音が信仰される大きな理由となりました。
天冠台の下の髪際には毛筋彫りが施されています。
足元の蓮華座の請花(うけばな)は素朴な造形です。
その下の反花(かえりばな)部分は、楕円形文に置き換えられているようです。
最下部は楕円形の框座がございます。
この観音像の特長は大きな光背(ずこう)にあります。
肩幅からすると大き過ぎるように感じますが、頭上面の頂上面をも包含する為に、必然的に大きな直径の頭光になったのでしょう。
頭光は円板状ではなく輪状になっており、十一面のお顔を際立たせています。
また、輪に依って生じた空間が像全体の均衡を保っています。
★框座後面に刻銘がございます。
『天平三
聖武帝
彦山納』
天平三年の聖武帝の御世に彦山に奉納したと云う意でしょう。
英彦山(ひこさん)は、福岡県と大分県にまたがる山です。
弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)と共に日本三彦山に数えられ、「日本三大修験山」のひとつと云われています。
英彦山神宮の神体山でもあります。
英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
嵯峨天皇の弘仁10年(819年)詔(みことのり)によって「日子」の2文字を「彦」に改められ、次いで、霊元法皇、享保14年(1729年)には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山(ひこさん)」と改称され現在に至ってます。
それ以前は彦山と呼ばれていたわけです。
英彦山は、中世以降、神仏習合により、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、戦後「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。
天平年間(729〜749年)は聖武天皇の治世で奈良時代の最盛期で、天平文化とも呼ばれます。
仏像刻記の天平三年・聖武天皇・彦山は年代的に符合しています。
経典類を未来に伝えるために埋納する「経塚」から出土した金銅仏の可能性もございます。
埋納する仏像は木彫仏よりも、材質面で永遠性のある金銅仏が選ばれるようになっています。
本像はこの時代に造仏されたものか、八世紀には変化観音像も金銅で造られるようになっていますので、飛鳥以来の伝世の仏像を年紀された年に奉納したものか、今となっては想像するよりほかはありません。
本像の像容はまことにユニークで他に類例をみることは、難しいでしょう。
奈良・京都等の一流の金銅仏に比べると、洗練されているとは云い難く、素朴で土の臭いを感じさせるような「地方仏」と云ってもよいような雰囲気が横溢しています。
その土地に根をおろし、人々に拝され守られているうちに風土に息づいて、時代様式の流れとはべつに、その土地らしい造形と雰囲気とをかもし出しているのではないでしょうか。
それ故に、中央の美しい仏像にはない、独特の魅力と引力のようなものがこの仏像にあるようです。
状態は良いほうですが、頂上面の先端と頭光の内側の溶接個所に隙間がございます。
所々に鍍金が残ります。
作品サイズ・高さ33.4㎝ 框座10.6×8.9㎝ 重量1.4㎏ 銅造鍍金 箱あり